ひとりでどこかで1泊2日くらい缶詰になりたい

ひとりでどこかで1泊2日くらい缶詰になりたい、と一定の周期で思っている節がある。ビジネスホテルでも自分の寝室でもいいし、車中泊も悪くない。青春18きっぷでひとり朝から夜まで電車を乗り継いでいるような状況でもイメージには合っている。

外的刺激を避け判断事項を極力減らし、自分の頭に浮かんだことを処理しても/しなくても誰にも迷惑をかけない。自分が何もできなくたって、困るのは自分だけ、という時間を欲している気がする。

たぶん『ひとり』というのは、ぼくが「自分でやりくりできるかもしれない」と思っている最大の単位なのだと思う。だれかと話したり、一緒に考えたり、なんとなく時間と空間を共有して過ごしたりするのは楽しいけれど、そこにはひとりでは至れない予想外の観点があって、どうしても判断が発生する。

判断は、エネルギーが必要だ。事象があって、これまでの状況から推察される情報があって、自分の想いと相手にとっての物語があって、それらを踏まえて何かを選ぶことが判断だ。選び取る行為って、体力とそれに基づく気力の残量がないと、けっこうつらい。

気力の残量がなくて、なにも決められなくて、ベッドの上でずーんと過ごしていても、影響されるのは自分だけ。のどが渇いておなかが空いても、何かが思い出されて泣けてきても、反応するのは自分の生身の身体だけ。その身体は自分のすっからかんになっている感情の影響下にあって放置されているのだ、という乾いた感触が、自分ひとりをやっとどうにか自らのコントロール下に置けているとの手応えにつながって、ようやく自分が戻ってくるような感覚。

「なにもできない。故に、なにもできない自分はなにもできないと思っている自分のコントロール下にある」とは自分でもずいぶんな接続の仕方だなと思うし、実感というものに囚われ過ぎている気もするが、いまのところこのやり方が一番うまくやれる気がする。

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