静岡で蜷川実花を。

静岡県美術館で蜷川実花展を見た。芸能人等のポートレートが壁一面に展示されているエリアがよかった。ぼくがいま受け止められるのはこういう写真なのだなと思った。それぞれの作品で主題となる人物は蜷川実花によって配置された(あのお馴染みの)花などによる過剰な色彩で演出されているのだけど、その色目のすべて、写されているものすべてが主題であるその人物が背負うのにふさわしい物語を示すための道具になっている。その人らしさが完璧に整理されていて、見る側は一瞥してその色彩による刺激を受け取るだけでキャラクターのストーリーを会得してしまえるような、すばらしくコントロールされた作品群だと思った。こういうのを豪腕と言うのだろうか。

桜を撮影した作品が印象的な展示でもあった。桜の写真を引き延ばしたパネルでフロア全体を覆った展示エリアでは若者たちがセルフィーを撮りまくっていた。照明を落としたエリアでは様々な桜の散りざまが、隣り合った窓からは絶対に見られない角度で、窓のように配置されたパネルの中だけでその姿を示していた。

写真は写真家によりシャッターが切られたその瞬間・その場所に、鑑賞者の視点を強制的に固定する。つまり写真家の肉体の反応、身体性の結晶みたいなものが写真を見ることで視覚から流れ込んでくるようで、その刺激が強烈なほど翻って写真を「見る側」の身体性を問われる気がして、そんな超至近距離で作用されることに対する心構えが、ぼくは出来ていないと思った。

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