あいちトリエンナーレ2016(岡崎)

あいちトリエンナーレ2016、岡崎会場へ。東岡崎駅周辺が会場で有料駐車場も多く、車でのアクセスもストレスなさそう。というわけで折りたたみ自転車をトランクに積んで出発。名古屋から高速で1時間弱で到着だー。近い。以下、とりとめのない感想を。

会場の1つである岡崎シビコは古くからある商業施設。空きフロアを展示に利用しているが他のフロアは通常営業で、エレベーターのドアが開くたび生鮮食品のフロアやダイソーが見える。会場である6階フロアに着くとがらりと雰囲気が変わるのがおもしろい。エレベーターを降りてすぐ「コラムプロジェクト」として写真をテーマにした「トランスディメンション-イメージの未来形」の展示が見える。大きな作品がゆったりと展示されていて雰囲気がいい。

外光が気持ちいいフロアに向かうと野村在の写真作品などが見られる。美術館以外の環境でアートを見ることができるもの芸術祭の楽しいところです。

ハッサン・ハーン《DON-TAK-TAK-DON-TAK》 エジプトはカイロのアーバンミュージックとして人気らしい音楽ジャンル「シャービー」のトラックを分析、再解釈したインスタレーション。ビートと音階を規定、各パートごとに独立した環境で録音し、改めて6つの楽曲に統合したものに照明効果が加えられた作品。偶然性により稀に発生する演奏のマジックみたいなクリエイティビティをルールとテクノロジーにより再定義する感じがヒンヤリしていておもしろかった。

そもそも「シャービー」ってジャンル自体、初耳でした。思わぬところで新しい音楽を知ることができて嬉しい。ほんとにあるんかな。

別会場、石原邸で柴田眞理子の、焼き物を使ったインスタレーション。

薄い陶器の組み合わせで出来た器の形をしたオブジェが、蔵の中に配置されている。鑑賞者はそのオブジェを自由に手にすることが出来るし、別の棚に動かすことも出来る。柴田眞理子のオブジェは薄くて軽い。しかも割れやすい。そのオブジェに触れることで、はかないものの存在を手触りとして体感出来るし、壊れやすく美しいものを自分で展示し直すという作業を通じて表現・鑑賞という行為との距離をすこし縮められたような気持ちになった。

戦後間もなく建てられたモダニズム建築を今でも社屋として使用している岡崎表屋では、その2~3階部分を使ったシュレヤス・カルレ《帰ってきた、帰ってきた:横のドアから入って》を。会場はもともと住戸として使われていたそう。そこに住んでいた人が日常的に使用していた家具や雑貨を使った「作品」を見せる「アンチ・ミュージアム」を標榜したプレゼンテーションで、たとえばずっとそこにかけられていたカーテンが、トリエンナーレという文脈に沿って提示されることで「作品」足り得ていくようなプロセスを楽しむ感じ。役割を果たせない場所に置かれた照明、意味ありげに並べられたコップなど、小さなジャブを浴びせるように鑑賞者に対しディティールを積み上げていくことによって「作品」とは何かを提示してくるイメージ。ひとつひとつの展示を見てもなんだか分かんない。編集された全体を眺めてやっと何か手応えが残る感じが、小説を読む感覚に近いなと思う。

東岡崎駅で見た二藤健人の一連の作品は、想像と体感の距離をショートカットさせるような企てをひしひしと感じられてよかった。死海に浮かぶ視点で撮影された360度の映像を天井に照射して、暗幕の中に寝ころんでみる作品があって、それをぼくたちと同じタイミングで見ていた小さい人が「すごいねー」「ういてるねー」「うみだねー」「たのしいね!」「さかなかな?」「きれいだねー」と言っていて最高だなと思った。駅で、床に寝ころんで、海に浮かんでる感じになるの楽しいしすごいよね。ぼくもそう思う。感じたことは言葉にしないと縮んでしまうし、書いておかないと忘れちゃう。アートについて「ヤバい」みたいな感想以外をどうこうするのダセーと思うけど、2016年の自分の記憶の破片が残るように、以上ここに記します。まる。

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