シン・ゴジラ

シン・ゴジラを見た。おもしろかった。今の日本にゴジラが現れたらどうなるか、対ゴジラシミュレーションを見ているような気分。

「ゴジラが日本に上陸した」という大嘘を語り得るものにしているのが執拗に書き込まれたディテールで、例えば誰がそんなこと気にするんだというレベルで会議の様子が描かれている。それも何回も。細かいリアリティの積み重ねが、舞台はあくまでも今の日本であることをこちらに示してくる。個人的には偉いさんたちが緊急会議してるとき担当レベルは隣のスペースで待機するとことか、テーブルについた上司の後ろからメモを入れるとか、あるある!と思った。あるあるは楽しい。シン・ゴジラを見てからというもの毎日の仕事、特に利害関係の調整とかレク用のペーパーを作りまくるとか、そういうクソめんどくさいことをシン・ゴジラの中で演じているんだと思いこむことで楽しくこなしている。業務連絡ひとつ発信するにも関係者等連絡調整会議が必要?文書主義だからな、仕方ないぜ(ここでエヴァの戦闘曲が流れる)。

シン・ゴジラに出てくる大半の人、特に巨災対の面々はスクリーン上にふつうに存在していて淡々と仕事をしている。で、みんなで頑張ってなんとか結果を出すんだけど、あれだけの大変な経験をしたのに内面の変化はほとんど描かれない。主人公の矢口でさえも表面上はあんまり変化が見えない(ように描かれている)。んなわけないと思う。あれだけの出来事と対峙したんだもん。価値観が変わっていたり、困難を乗り越えたことで自信を得たり、仲間との関係性を通じて自分が大切にしたい何かを見い出したり、たぶんしてる。でも描かない。

唯一心の動きが比較的分かりやすく描かれているのが石原さとみ演じるカヨコ・アン・パターソンだ。カヨコは「日本の中の人」ではない。アメリカから特使としてやってきて、ゴジラが上陸した日本の状況を「見ている人」。観客であるぼくと一緒だ。登場したばかりの頃は「JudgeするのはPresidentよ」みたいなことを言っていた彼女が矢口との交流を経て、最終的には政治家としてのリスクを取って自分自身で判断を下す。そういった意味ではシン・ゴジラはカヨコの物語であり、つまり状況を「見ている人」、観客のための物語なんだろうなと思う。

シン・ゴジラでキャラクターの内面が積極的には描かれていないことが、ぼくにはとても清潔で好ましいことに感じられた。ゴジラと対峙した人たちが感じたことはきっとそれぞれ違うし、ドラマも1つではない。東日本大震災もそうだったと思う。ショッキングな出来事と対峙した人たちの内面を大括りで語ることはある種の暴力だ。できるのは、客観的事実を記録していくこと、自身の経験や心情を語ること、そして被害を受けた人たちに心を寄せることだけなんじゃないか。

シン・ゴジラの作中で描かれなかったドラマを、ぼくは色々と想像する。ちなみに尾頭ヒロミは学生時代に『Olive』を読んでいたと思う。インターネットではシン・ゴジラを見た人たちがキャラクターの日常を妄想していて、それを見るのも楽しい。映画を通じて想像力を働かせるのはすごく楽しいことだ。ゴジラという災害について語り、登場人物に心を寄せて物語を補完していく作業は、シン・ゴジラという物語全体を自分の中に取り込んでいくプロセスだ。取り込んだからといって内面の変化、つまりドラマが起こるかどうかはわからないけど、そいう仕組みの映画なのかな、と思った。

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